井上陽水

簡介: 小檔案
井上 陽水(いのうえ ようすい、 - )は、日本のシンガーソングライター。血液型AB型。身長178cm。
小簡介
福岡県嘉穂郡幸袋町(現(xiàn)?飯塚市幸袋地區(qū))出身。本名は井上陽水と書いて「いのうえ あきみ」と読む。1970年代には吉田拓郎と雙璧を 更多>

小檔案
井上 陽水(いのうえ ようすい、1948年8月30日 - )は、日本のシンガーソングライター。血液型AB型。身長178cm。
小簡介
福岡県嘉穂郡幸袋町(現(xiàn)?飯塚市幸袋地區(qū))出身。本名は井上陽水と書いて「いのうえ あきみ」と読む。1970年代には吉田拓郎と雙璧をなすフォークソング界あるいはニューミュージック界の最重要人物として活躍した。1973年発売のアルバム『氷の世界』は、アルバムとして日本市場で初のミリオンセラーを記録する。その後も1984年のアルバム『9.5カラット』が売り上げ100萬枚、1999年のベストアルバム『GOLDEN BEST』は売り上げ200萬枚を達(dá)成するなど、長いキャリアを通して高い人気を維持している。
フランスのミッシェル?ポルナレフに強(qiáng)い影響を受けており[要出典]、ポルナレフを真似てモジャモジャの長いカーリーヘアーをし、決してサングラスを取らないというスタイルを1970年代は通した。また、特徴の強(qiáng)い歌詞と歌い方でも知られている。1976年ごろまで、歌詞は若者特有の繊細(xì)でセンチメンタルなものが多いと同時に、エキセントリックかつシュールな作風(fēng)も多く、同時代の他のアーティストと一線を畫した。また高く細(xì)い聲を絞り出すような獨(dú)自の歌い方が特徴的である。歌詞は言葉の響きを重視したものが多く、獨(dú)特の発音で甘く歌う。
デビュー前からビートルズの熱狂的なファンである。コンサートやテレビ番組の中でしばしばビートルズの作品を歌うほか、ビートルズの影響は楽曲の隨所に見られる。
2人目の妻である石川セリとの間に一男二女がおり、次女は作詞家?歌手の依布サラサである。
大事件
デビュー前
陽水の父、井上若水は福岡県の歯科醫(yī)であり、元は軍醫(yī)でもあった。1948年に福岡県嘉穂郡幸袋町目尾(現(xiàn)飯塚市)で生まれた陽水は若水の長男にして唯一の男子であり(ほかに姉1人、妹1人がいる)、家業(yè)を継いで歯科醫(yī)になることを期待されていた。なお、五木寛之などにより、陽水と幸徳秋水に血縁があるとの説が唱えられたことがあるが、真相は不明である。
1953年、福岡県田川郡糸田町に引っ越す。以來、デビュー時の上京まで約15年間を糸田町で過ごす。糸田小學(xué)校、糸田中學(xué)校、西田川高校と進(jìn)學(xué)する。 糸田小學(xué)校時代に陽水の大好きだった大きな瞳の月森先生の為に町內(nèi)會の「のど自慢大會」で合格の鐘を鳴らした事がある。同時に宿題を忘れたことを帳消しにしてもらっている。また、糸田中學(xué)時代にFMラジオを聴こうとしてFMアンテナを設(shè)置する際、自宅の屋根から隣の友人宅の庭先に転落した事もある。しかし無傷だったらしい。 西田川高校時代に所屬していた「弓道部」では男性用の弓ではなく女性用を使っていたとのこと。その弓で昇段試験に挑んだが、會場が小高い丘の上にある田川體育館だった為、強(qiáng)風(fēng)にあおられて矢がひどく揺れ、本人にとって悲しい結(jié)果となってしまった。
1963年、ラジオで知ったビートルズに熱中する。1966年前後に、はじめて歌を作る。この歌は當(dāng)時付き合っていた女の子を歌ったもので、ごく短く、題名もついていないが、デビュー後にはコンサートでときおり歌われることになる。1967年、九州歯科大學(xué)を受験するも失敗し、予備校に通い始める。この年は小倉育英館に通ったが、翌年には九州英數(shù)學(xué)舘に変える。浪人時代も音楽に熱中していた。このころ「帰って來たヨッパライ」(ザ?フォーク?クルセダーズ)を聞いて、「これなら自分にもできる」と思ったのが、のちに歌手を目指すきっかけになったという。1968年、再度の受験にも失敗する。1969年、3度目の受験に失敗[1]し、大學(xué)進(jìn)學(xué)を諦めて歌手を志す。この大學(xué)受験での挫折経験は陽水のその後の人生に大きな「肥やし」となる。
アンドレ?カンドレ時代
1969年6月に生活の本拠を東京に移すが、しばらくは転々と居所を変えていたらしい。
同年、RKB毎日放送のラジオ番組「スマッシュ!!11」が放送開始される。この番組には視聴者が作った音楽を流すコーナーがあり、それを知った陽水は「カンドレ?マンドレ」を自宅録音し、4月16日、テープをRKB毎日に持ち込む。このとき陽水は「マンドレ」という蕓名を考えていたが、「スマッシュ!!11」のディレクターの野見山実が難色を示し、蕓名は「アンドレ?カンドレ」に決まる?!弗螗丧?マンドレ」は「スマッシュ!!11」で放送され、數(shù)多くのリクエストを受ける。ただしリクエストのかなり多くは、陽水が友人にはがきを配って頼んだためのものだったという。
この(仕組まれた)反響から、「カンドレ?マンドレ」は東京で改めてレコーディングされ、同年9月1日、CBSソニー(現(xiàn)?ソニー?ミュージックエンタテインメント)からアンドレ?カンドレのデビューシングルとして発売される。演奏は六文銭、編曲は小室等が擔(dān)當(dāng)した。陽水は「カンドレ?マンドレ」のヒットを確信していたが、実際にはほとんど注目されず、続く「ビューティフル?ワンダフル?バーズ」も、松山猛と加藤和彥から楽曲提供を受けた「花にさえ、鳥にさえ」(1970年)も不振に終わる。
シングル3枚でアンドレ?カンドレの活動は終わることになるが、これらの作品では、以後にない、無理をしない甘い歌唱が聞ける。またジャケット寫真にはいずれもサングラスをかけ、髪はなでつけて寫っている。
この時期に知り合った小室等、安田裕美(六文銭のギタリスト)、星勝(モップスのギタリスト)、RCサクセションの忌野清志郎などとは以後長く深い交際になる。特に小室等からは、以後のヒットに恵まれるまでの間にさまざまな形で援助を受け、また清志郎とは「帰れない二人」「待ちぼうけ」などを共作する。
ポリドール時代
1971年、ポリドール?レコードのディレクター多賀英典に誘われて移籍し、初のアルバム『斷絶』のレコーディングを始める。このとき來生たかおがフォークギターで參加している。翌1972年、蕓名を井上陽水(ようすい)と改めて、シングル「人生が二度あれば」で再デビューを果たす。ここで陽水は歌唱に嗚咽を交えるなど、感傷を強(qiáng)調(diào)しており、『氷の世界』(後述)までの作品は同様の作風(fēng)で貫かれることになる。また「人生が二度あれば」を編曲した星勝は、以後しばらく、陽水の作品の大部分を編曲することになる。5月に『斷絶』がリリースされると、『斷絶』に収録された「傘がない」は富澤一誠などの批評家に注目される。翌1973年3月のシングル「夢の中へ」が初のヒット作(オリコン17位、以下売り上げ順位はすべてオリコン)となり、同年7月には初のライブアルバム『もどり道』がリリースされるに至る。人気上昇の切り口となった「夢の中へ」は、自身が「みんなで歌えるように作った」とコメントしているとおり、単純で明るく、親しみやすい曲である。
同年12月のアルバム『氷の世界』が陽水をトップスターの座に押し上げることになる?!簹辘问澜纭护膝辚戛`ス直後から1年半にわたってチャート1位を爭い続けるなどした結(jié)果、1975年に、アルバムとしては日本初のミリオンセラーとなる。1974年のアルバム『二色の獨(dú)楽』も10週連続1位を獲得する。これらのことによって、陽水は「フォークの帝王」と呼ばれるに至る[2]。1980年代、1990年代にも人気のピークがある(後述)が、陽水がポピュラー音楽の世界でもっとも重い位置を占めていたのはこの時期である。それはチャートの順位によっても明らかな上、以後のベストアルバムに収録される頻度、カバーされる頻度がこの時期の作品が特に高いことなどにも現(xiàn)れている。
『氷の世界』の影響で以前の作品が注目され、「人生が二度あれば」「愛は君」「傘がない」「つめたい部屋の世界地図」「東へ西へ」「夜のバス」「夏まつり」「神無月にかこまれて」「紙飛行機(jī)」「能古島の片想い」などが人気を博する。これらの作品は四畳半フォークに通じる敘情的な色合いを持っている。また「東へ西へ」などには超現(xiàn)実主義的な歌詞がすでに現(xiàn)れている。これについて陽水は「ボブ?ディランの影響を受けた」と語っている。さらに「たいくつ」「自己嫌悪」など內(nèi)省的な作品が多いこともこの時期の大きな特徴である。ただし『二色の獨(dú)楽』はロサンゼルスでレコーディングされ、演奏にジャック?ニッチェやジーン?ペイジを迎えたものであり、サウンドが『氷の世界』以前のフォーキーな作風(fēng)から一転してロック色を帯びている。
以後の「癖毛にサングラス」というイメージは、1974年前後から始まったものと思われる。陽水はポリドール時代には一度もテレビに出演せず(理由は諸説あり)、外見が一般の目に觸れる機(jī)會はレコードのジャケット寫真がもっとも多くを占めていた。シングル「人生が二度あれば」から『氷の世界』までのジャケットでは、髪型がアフロヘアー、サングラスはなしで寫っている。しかし『氷の世界』のインナースリーブにある寫真の一枚ではサングラスをかけており、サングラスなしの寫真は1975年のシングル「御免」を最後に見られなくなる(のちに著書『綺麗ごと』のために撮られたものなど少數(shù)の例外がある)。
1974年1月17日、熊本県出身の女性[3]と結(jié)婚する。同年のシングル「闇夜の國から」はこの結(jié)婚を意識した作品とされている。
1975年、陽水?吉田拓郎?泉谷しげる?小室等が中心となって、フォーライフ?レコードを発起する。また、後に結(jié)婚する石川セリと出會う。
フォーライフ時代?第二次陽水ブームまで
1976年2月、離婚する。2年余りの短い結(jié)婚生活だった。同年にフォーライフからリリースした『招待狀のないショー』は9週連続1位を獲得する。1977年、石川セリのアルバム『気まぐれ』に「ダンスはうまく踴れない」ほか2曲を提供する?!弗昆螗工悉Δ蓼xれない」は、陽水の部屋に遊びに來たセリの目の前で30分ほどで作られたという。同年9月10日、大麻所持容疑で逮捕され、「自分は酒が飲めないので、くつろぐためにマリファナを吸った」と自供した。同時に芋づる式に內(nèi)藤やす子、ジョー山中、內(nèi)田裕也、にしきのあきら、桑名正博ら60人余りが逮捕される蕓能界大スキャンダル事件に発展。陽水は9月22日に保釈され、10月11日には懲役8か月、執(zhí)行猶予2年の判決を受ける。この事件が大きなきっかけとなって急速に人気を失い、シングル「青い闇の警告」は100位、「ミスコンテスト」はチャートインしないというセールス不振に陥る。 だがこの「青い闇の警告」、「ミスコンテスト」は獄中で作られたモノであり、「青い闇の警告」にある『今の住所はここで、固い扉が守り』とは牢獄の事を意味し、「ミスコンテスト」にある『頼りなさそうな司會者が叫ぶ』とは公判での裁判官の事を意味しているらしい。なお、このころから陽水の特徴であったセンチメンタルな作風(fēng)が封印されたことがうかがえる。
1978年8月30日、30歳の誕生日に石川セリと結(jié)婚する。およそ3か月後の12月16日には長男が産まれている。
1979年のアルバム『スニーカーダンサー』では高中正義が5曲の編曲を努め、1980年のアルバム『EVERY NIGHT』では星勝が編曲から外れるなど、この時期にはサウンドが大きな転換を遂げている。さらに1981年のアルバム『あやしい夜をまって』から編曲に加わった川島裕二は、その後BANANAなどの名前で陽水の作品に多く攜わり、星勝と並んで重要な位置を占めるようになる。上述のとおりセールスは伸びなかったが、この時期の作品には後に代表作とされる「なぜか上?!埂负¥貋恧胜丹ぁ埂弗弗Д楗珐`」「とまどうペリカン」「カナリア」「リバーサイドホテル」などが含まれており、創(chuàng)作面は充実していたとも言える。この時期の歌詞には、英語を多用する、語呂合わせなど音韻を重視する、その結(jié)果として意味がわかりにくいものになる、性的な含みがある、などの特徴がある。曲は明るく、ポリドール時代から比べるとかなり複雑なものが多く、歌唱は伸びがあって力強(qiáng)い。
1982年、陽水のバックバンドを務(wù)めていた安全地帯がデビューし、1983年には陽水の作詞による「ワインレッドの心」をヒットさせる。さらに1984年には安全地帯に歌詞を提供した「戀の予感」、中森明菜に歌詞と曲を提供した「飾りじゃないのよ涙は」、そして自身の「いっそセレナーデ」がヒットする。12月10日付のチャートでは「飾りじゃ?」が2位、「戀の予感」が3位、「いっそ?」が4位と、陽水の手がけた作品が上位を占める。同月21日にはこれらのヒット曲をはじめとする提供曲を陽水が自ら歌ったアルバム『9.5カラット』がリリースされ、翌1985年にかけてヒットする?!?.5カラット』は1985年のアルバム年間売り上げ1位を獲得し、陽水にとっては『氷の世界』以來2作目のミリオンセラーとなる。このヒットにより第27回日本レコード大賞で作曲賞とアルバム賞を獲得する。1986年8月にはライブアルバム『クラムチャウダー』がリリースされ、9月には同じ題名のライブビデオも発売される。さらに8月20日から2日間、安全地帯とのジョイントで「STARDUST RENDEZ-VOUS」と題したコンサートを神宮球場で行う。このコンサートは6萬人の聴衆(zhòng)を動員し、同年內(nèi)にテレビ放映されたほか、ライブアルバム、ライブビデオにも収録される。これらのことは『氷の世界』前後の「陽水ブーム」にたとえて、「第二次陽水ブーム」と呼ばれた?!傅诙侮査蜘`ム」を擔(dān)った『9.5カラット』の収録曲は、歌詞にも曲にも陽水獨(dú)特の癖が抑制され、よりポップに作られている。
フォーライフ時代?『九段』まで
1988年9月、日産自動車より新発売されたセフィーロ(初代?A31型)のCMに出演し、アドリブで「みなさん、お元?dú)荬扦工工劝k言する。ところがこのCMが公開されて間もなく、昭和天皇が危篤に陥ったため、陽水の臺詞はカットされてしまう。つまり陽水の映像は「口パク」になっていた(昭和天皇の崩御後、元に戻される)。このことが話題を呼び、「お元?dú)荬扦工工餍姓Zになる。それから間もない10月、フジテレビ系のドラマ『ニューヨーク戀物語』の主題歌に使われた「リバーサイドホテル」がヒットする(11位)?!弗辚些`サイドホテル」は1982年に発表されていた作品だが、リリースから6年を隔ててのヒットとなった。
翌1990年から1991年にかけて、映畫『少年時代』の主題歌として作られた「少年時代」(作曲は平井夏美との共作)がヒットする。リリース直後はそれほどでもなかったが、ソニー?「ハンディカム」のCMに使われてから売り上げを伸ばした?!干倌陼r代」は夏の終わりを歌った季節(jié)感が好まれ、TVでしばしばBGMに使われるほか、音楽教科書に掲載されるなどして、陽水の作品ではもっともよく知られている。特に1980年代以降生まれの世代にとって、井上陽水と言えば真っ先に連想されるのが「少年時代」だろう。このことは『GOLDEN BEST』(後述)の1曲目に「少年時代」が置かれていることからも読み取れる。
1993年、フジテレビ系のドラマ『素晴らしきかな人生』の主題歌に使われた「Make-up Shadow」(現(xiàn)在、トヨタ?ブレイドのTVCFソング)がヒットし、日本レコード大賞の金賞を受賞する。2000年代の井上に見られるような、英語風(fēng)の発音が、このころから目立ってきている。
このころからリリースのペースが落ち始める。1994年にアルバム『永遠(yuǎn)のシュール』を発表してから、次のアルバム『九段』(1998年)までには3年半のブランクがある。また、この時期はコンサートも少なく、1994年末から1999年9月までのおよそ5年間は全國ツアーを一度も行っていない。
1996年、PUFFYのデビュー曲として歌詞を提供した「アジアの純真」がヒットする。「アジアの純真」の作曲は、以前から交流のあった奧田民生である(1994年には「月ひとしずく」(小泉今日子)を共作している)。同じく陽水作詞、民生作曲でPUFFYに提供した「渚にまつわるエトセトラ」もヒットする。続いて「井上陽水奧田民生」というアーティスト名でリリースしたシングル「ありがとう」、アルバム『ショッピング』はこれらのヒットを受けたものと言えよう?!袱ⅳ辘趣Α工膝辚戛`スされた1997年にサッポロビール?「黒ラベル」のCMに使われたことも手伝ってヒットする?!弗ⅴ弗ⅳ渭冋妗埂镐兢摔蓼膜铯毳ē去互去椤工献匝荬巫髌筏摔胜ぴ?dú)荬韦瑜丹?、以後のコンサートではしばしば歌われる。
『GOLDEN BEST』とその後
1999年、アンドレ?カンドレとしてのデビューから30周年になることを記念して、2枚組のベストアルバム『GOLDEN BEST』がリリースされる?!篏OLDEN BEST』は自身3作目のミリオンセラーとなった後も売り上げを伸ばし続ける。このヒットを受け、『GOLDEN BEST』のリリースからちょうど1年後には「裏ベスト」として『GOLDEN BAD』が、『GOLDEN BEST』の売り上げが200萬枚を突破した2003年には記念として『GOLDEN BEST SUPER』が発売されている。
2001年、「コーヒー?ルンバ」「花の首飾り」のカバーがヒットし、日本のポピュラー音楽において2003年ごろまで続くカバー?ブームの先駆けとなる。これに続いてリリースしたカバーアルバム『UNITED COVER』は80萬枚を売るヒットとなり、その期間のライヴ映像はDVD『UNITED TOUR』として発売される。
『GOLDEN BEST』以後の活動は、『UNITED COVER』とセルフカバーアルバムの『Blue Selection』をリリースし、1999年から2006年まで、2004年を除いて毎年全國ツアーを行うなど、歌うことに関しては活発だが、自作の新曲は少ない。この期間で新曲を含むリリースは、シングルが6枚、アルバムは『カシス』『LOVE COMPLEX』の2枚にとどまる。陽水が作曲とリードボーカルを兼ねた作品は合計25曲である。それが『九段』以後8年間の仕事であり、デビュー以來30年で250曲ほどを作曲?リリースしたことに比べれば、この面の活動は大幅に減ったといえる。近年は、曲のリズムにあわせた詩が多くなってきており、言葉を音で捉えたような作品が増えている

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