北島三郎

簡介: 小檔案
北島 三郎(きたじま さぶろう、 ‐ )は、日本の演歌歌手、作詞家、作曲家である。
小簡介
本名は大野穣(おおのみのる)。一般にはサブちゃんという愛稱で呼ばれる。また作詞家?作曲家、としては原 譲二(はら じょうじ)の筆名で自身の曲は勿論だが 更多>

小檔案
北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年10月4日 ‐ )は、日本の演歌歌手、作詞家、作曲家である。
小簡介
本名は大野穣(おおのみのる)。一般にはサブちゃんという愛稱で呼ばれる。また作詞家?作曲家、としては原 譲二(はら じょうじ)の筆名で自身の曲は勿論だが、下述している北島ファミリーのメンバー等の他の演歌歌手に楽曲提供する事もある。更に自身の舞臺のシナリオや演出も原譲二の名で擔(dān)當している。
デビュー時に所屬した新栄プロダクションを経て後に獨立し、北島音楽事務(wù)所を旗揚げした。
『函館の女』に始まる「女シリーズ」、『兄弟仁義』などの「任俠シリーズ」各曲など、數(shù)多くのヒット曲がある。
演歌の振興や後進の育成にも貢獻しており、山本譲二、小金沢昇司など、北島と同じ事務(wù)所または北島を慕う演歌歌手によって北島ファミリーが形成されている。ファミリーからは親父と呼ばれている。
口癖は「アメリカにジャズあり、フランスにシャンソンあり、日本に演歌あり。」
大事件
デビューまで
北海道上磯郡知內(nèi)村(現(xiàn)在の知內(nèi)町)出身。北海道函館西高等學(xué)校に進學(xué)した。高校時代の北島は、海で溺れた小學(xué)生を救助したという逸話がある(この人命救助の件は當時の函館新聞にも掲載され、その記事が函館市の北島三郎記念館に飾られている)。
高校在學(xué)中に函館で開催された「NHKのど自慢」に出場し、歌手を志すようになった。
18歳で高校を中退、東京の親族を頼って上京し、當初は東京聲専音楽學(xué)校(後の昭和音楽蕓術(shù)學(xué)院、現(xiàn)在は閉校)に入學(xué)。しかし歌謡曲への志向が強く、渋谷を拠點に流しの仕事をしながらデビューを目指すようになった。流しの収入は3曲100円であったと言われる。またこの頃、妻?雅子(後に北島音楽事務(wù)所社長→副會長となる)と結(jié)婚。
歌手デビュー以前に、『ゲルピンちん太ぽん太』の“ちん太”として漫才コンビでのステージも経験した。これは歌の師匠がステージ度胸をつけるためにやらせたらしく、お客さんに受けなかったため、ギャラは一切もらえなかったという。
メジャーデビュー、だが売り上げは低迷
「北島三郎」という蕓名は、當時の恩師であった船村徹によって命名された。北の島(北海道)から來たので姓を北島とし、また三郎はみんなが親しみやすい様にとの理由であった。
1962年に開かれた村田英雄の『王將』のヒット記念パーティーで歌手としての初舞臺を踏み、その後の映畫出演においても「兄弟仁義」等の東映任俠路線で多數(shù)共演した。このような縁から後年も村田英雄を先輩歌手としてよく慕った。
そして同年6月、『ブンガチャ節(jié)』(作詞?星野哲郎、作曲?船村徹)でメジャーデビューしたが、レコード売り上げは芳しくなかった。
この『ブンガチャ節(jié)』は、いわゆる放送禁止となった歌謡曲として有名である。一般的には、歌詞の中に合の手がベッドが軋む音を連想させ卑猥だから、という説が最もらしく言われている。しかし、この當時はベッドも一般家庭にまだまだ普及していない頃である。したがって事実ではない。この曲の元曲は渋谷などの繁華街で流しが歌っていた春歌(猥歌)であり、それを星野が歌詞を変えて売り出したが、原曲が春歌であることを知っていた放送関係者が不適切だとして見送ったのが真相である。
演歌の第一人者へ
北島はデビュー曲が売れなかった屈辱にめげず、2作目に出した『なみだ船』が20萬枚のヒットとなり、大物演歌歌手への礎(chǔ)を築いていった。
當初の所屬レコード會社は日本コロムビアであったが、1963年秋に日本クラウンが設(shè)立されると同時に、同社へ移籍。クラウンレコードの第一回新譜に、美空ひばりらと共に名を連ねた。またこの年に紅白歌合戦に初出場した(詳細は後述)。
1965年、『函館の女』(150萬枚セールス)『兄弟仁義』の歌と映畫(自ら主演しシリーズ化され、この間に村田英雄らと共演)のヒットにより、演歌歌手としての人気を確立した。1967年にはシングル盤のプレス枚數(shù)が公稱で2000萬枚に達した。
1978年に発表された『與作』(NHK『あなたのメロディー』で公募)は平易な歌詞とゆったりした曲調(diào)でヒットとなり、ファン層を広く拡大することに貢獻した。
活動の展開
演歌歌手としての評価を確固なものとした後も、北島は様々な挑戦を続けた。
『兄弟仁義』のヒット以降、映畫、テレビドラマ、舞臺公演にも積極的に進出し、任俠映畫スター、時代劇スターとしても実績も重ねた。また、テレビのバラエティ番組にも積極的に出演していている。そのため、“北島ファミリー”以外でも、とんねるずの木梨憲武ら、北島を慕う蕓能人が多い。
1980年代以降は作詞、作曲、演出なども手がけるようになった。こうした活動の際に用いられるペンネームの原譲二は、腹が丈夫であることが由來とされる。
1985年8月には飛行機に特設(shè)ステージを設(shè)け、機內(nèi)コンサートを開催した。當時飛行機內(nèi)での本格的コンサートは世界初であった。
1997年9月には、演歌初のCDエクストラとなる『出逢い』を発売。同年には北海道壽都町のイメージソング『風(fēng)のロマン/弁慶岬』を歌った。1998年には、アニメの主題歌(NHK『おじゃる丸』主題歌『詠人』(うたびと))を歌うなど、新しいジャンルへの挑戦も目立っている。
2006年10月30日付のオリコン演歌チャートでは、『あの日時代』が1位を獲得。同チャート1位の史上最高齢記録を更新した。
2006年10月、満70歳を迎えたことを祝うパーティーの席上で、ファミリーの「長男」という位置づけであった山本譲二を2007年に“暖簾分け”の形で獨立させることと、音楽事務(wù)所の社長を夫人の雅子から長男の龍に交代させることを発表し、周囲を驚かせた。なお北島は今後も、山本を支援し続けることに変わりは無いとも明かした。
2008年現(xiàn)在、東京都八王子市に在住。2003年11月29日には、八王子観光大使に委囑された。北島の自宅へ続く坂道は、地元では「三郎坂」と呼ばれている。